なんてエラそうなタイトルをつけていますが、ホントは物凄い小心者です。その小心者が綴る昼休みのブログ。
スポンサーサイト
この広告は60日以上更新がないブログに表示されております。
新しい記事を書くことで広告を消すことができます。
posted by スポンサードリンク | | - | - | - |
【連載第7回】 「こんなこともした」
「こんなこともした」
田ノ浦01
毎月1回、大分市の田ノ浦ビーチで「田ノ浦ボードウォーク」が開催されています。
アートと音楽に出会える場を、ということで、不肖わたくしも参加させていただきました。
田ノ浦02
いつもは音楽ユニット「ネジごん」で参加しているネジさんのアートブース。
ミサンガやフォトカード、木のオブジェがあったりして、とっても面白い。
素敵な空間です。
田ノ浦03
これはワタクシのアートブース。
ルネッサンス期の技法でテンペラというのがありますが、その技法をアクリル絵具で簡略化して描いてあります。
石膏(ジェッソ)で支持体を作り、細かいハッチングで色を重ねていくというもの。
といっても最近は時間もないので、過去の作品だけでしたが・・・。
音楽あり、アートありの楽しい一日でした。

イザイ デザイン オフィスのホームページはこちらから。



posted by sato | 10:48 | エッセイ | comments(40) | trackbacks(0) |
【連載第6回】「家庭の事情・今昔」
「家庭の事情・今昔」

子供の頃を思い出していた。
昨年父親が他界してから、いろいろと昔のことを思い出すようになった。

自分の子供はいま9歳。小学校三年生でなにかとおもしろい(たまには厄介な)ことをしでかしてくれる。
僕が9才のころ、父は何歳くらいだったのだろうと思って、さっそく計算してみたらなんと43歳。
今の自分とあまり変わらない。ちょっとオドイタ。

父は職人で、昔気質の人間だったから僕ら子供の面倒なんて、全然みていなかった。
テレビを観てコップ酒を飲んでごろごろしていたっけ。
あまり父と触れ合った記憶もないが、だからといってそれが嫌だったわけでもない。
なんというか、それが普通と思っていた。
畳の部屋にテレビがあって、障子と襖の部屋しかなくて、丸い座卓でご飯を食べて・・・。
機械油の匂いとタバコの匂い。家の前の道は、轍(わだち)にいつも水溜りがあった。


さて現在。
今は自宅兼用の事務所で働いているので、自然と子供と向き合う時間が長い。
いざインフルエンザだ、学級閉鎖だというと子供は一日中家の中。
宿題した?とか、顔洗った?○○ちゃんから電話!とかなにかと忙しい。
オープンスクール、PTA、持久走大会に発表会なんてあると、カメラを担いで学校へ走り出す。
あとボランティアの「読み聞かせ」もあるし、最近は物騒だから「見回りパトロール」もある。
子供を取り巻く事情は35年前と、なんと様変わりしたことか。

大人が子供と接する時間が増えたのは、それだけ社会に余裕が生まれたからなのだろう。
日本は豊かになったというのは修辞でもお世辞でもない。
本当に豊かになったのだと思う。

たとえば「本」の話をすると。
うちの子供は僕に負けず劣らず「本好き」なので、学校の図書館が大好き。
県立図書館と購入した本の数をあわせると何百冊も読んでいる。
まだ三年生でですよ。
うちの奥さんは、子供の頃には「親指姫」という暗ーい絵本が一冊あったきりなので、本については嫌な記憶しかないそうな。

「欲しいものが手に入る時代」というとゲームやジャンクフードを連想してネガティブな気持ちになるけど、「必要なものが手に入る時代」と考えてみると、やはり昔より今のほうが良い。
自分の子供は自分よりも幸せになって欲しい、という親心がこの国の歴史を作る推進力なのかもしれない。


イザイ デザイン オフィスのホームページはこちらから。


posted by sato | 10:03 | エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) |
【M-Houseプロジェクト】「M-Houseはじまりました」
「M-Houseはじまりました」


確認申請が「(財)大分県建築住宅センター」で無事おりて、残りの詳細図をばたばたと描いていますが・・・。
大分市横尾の造成地に新築する「M-House」
この日ようやく地鎮祭となりました。
地鎮祭
オーナー家族の皆様と工務店さんが出席しました。
生憎の雨模様でしたが、そこは「雨降って地固まる」
地盤がしっかり強固になってほしい願いのもと、滞りなく祭事が執り行われました。
起工式
早く引っ越したいというMさん。
ですが、工事はまだ始まったばかりです(笑)。
地盤改良
宅地
というわけで、地盤改良工事、擁壁工事が終わり、まもなく基礎工事着工です。
【M-Houseプロジェクト】は随時、更新して行きます。
お楽しみに。

イザイ デザイン オフィスのホームページはこちらから。

posted by sato | 13:49 | M-Houseプロジェクト | comments(0) | trackbacks(0) |
【連載第5回】テレビをドウスル?
「テレビをドウスル?」

住宅の設計をする上で非常に困ることがあります。
それはテレビをどこに置くか。
というのは、僕自身があまりテレビを見ないので、テレビの扱いがとても粗雑になってしまうのです。
お客さんには非常に申し訳ないと、いつも思っています。ホントです(汗)。

インテリアの雑誌を見ても、洋書のモダニズム建築の写真集を見ても、テレビがリビングに写っていないことが多い。
最近テレビが薄型になってカッコよくなったのも事実ですが、テレビがあるリビングをうまく想像することができないのでしょう。

寝転んでプロ野球を観るのか、ソファに座って映画を観るのか。
あるいは家族そろってバラエティー番組を観るのか。

おそらく答えはひとつではなく、すべて「アル」んだと思います。
いつも言っているように、部屋の用途や動作を固定しない。

だけどテレビは非常に厄介です。


知人の家族は一家に一台どころか、ひとりに一台テレビがあるらしい。
だから夕食が済んだら、それぞれがそれぞれの部屋へLet's Go。
そうなると「じゃあリビングの役割は何?」と問いかけたくなります。
部屋の用途(使いみち)を限定しないということは、ニュートラルな状態にしておきたいということ。
なのに個人の動作がテレビのおかげで「固定」されてしまうことは、ちょっと違うのじゃないかと思います。

子供が大きくなると携帯電話でメールばかりするようになるんだから、せめて小さいうちは家族団欒で話ができるリビングが作れたらいいなあと、いつも思っています。
その時にはテレビを消して、みんなでお話しましょうよ。
大人だったら、すこしのお酒とすこしの音楽を。


ハナシは違いますが、ステレオ装置(古い言い方!)だったらリビングのどこに置くか、割と簡単に想像できたりします。
我が家には「マランツ」のアンプと「パイオニア」のスピーカー、以前新築のお客さんからもらった「マイクロ精機」のレコードプレイヤーがあります。って、すでにミニコンポですらないのですが。
ナガオカのレコード針は通販で取り寄せたので、まだまだ現役です。
大分パルコの地下にある「パブリック・レコード」で中古レコードを500円くらいでGETして・・・。
・・・いかんいかん、趣味の話になってしまう。

リビングにオススメなのが無印良品からでている「壁掛けCDプレイヤー」ですね。
おしゃれな換気扇(?)みたいでスピーカーを天井埋め込みにしたら、リビングがカフェのようになります。
CDはボッサ、JAZZ、ソフトロックがそろっている「カフェ・アプレミディ」のシリーズだったら文句なし。
橋本徹さんの選曲といったら・・・・。
・・・いかんいかん、また趣味の話になってしまいました。

脱線ついでに。
イザイ デザイン オフィスホームページに音楽プレイヤーを貼り付けました。
左下のバーがそれです。
矢印を押すと音楽が流れます。

ホームページこちらへ。
お試しあれ。
posted by sato | 11:44 | エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) |
【連載第4回】「スーザン・ソンダグとセイゴウと『間(ま)』」
「スーザン・ソンダグとセイゴウと『間(ま)』」

前回、前々回とデザインについての「繊細さ」を語ってきました。
自分の中でもどうして「繊細さ」なのかという説明をうまくできないでいたところに見つけました、棚からひとつかみ。

屈指の編集のクリエーターである松岡正剛さんが20年以上前に出版した「遊学の話」がそれ。
ということは僕がこの本を読んだのも、20年以上の前の話。
だから「めぐり会えた」のではなくて、再発見したということです。ハッハッハ。

この本のなかで正剛さんは10人の蒼々たる「遊学者」と対談をおこなっています。
ジョン・ケージ、スーザン・ソンダグ、ナム・ジュン・パイク、ロジェ・カイヨワ、J・G・バラード、フラシス・イエイツ・・・などなど。
このなかで正剛さんとスーザン・ソンダグが語る「間(ま)」についてが、今回の話題です。

スーザン・ソンダグはアメリカの哲学者。キャンプという概念で芸術の「反解釈」を掲げた人。
興味のある方は「松岡正剛の千夜千冊・第六百九十五夜【0695】2003年01月20日」をごらんになってください。
さて、問題の「間(ま)」についてですが、20年前にはおそらく読み飛ばしていた所なのですね。だって、全然おぼえていなかったのですから。

■セイゴオ ―・・・(略)・・・「間(ま)」というのは或るものと或るものとの間(あいだ)という意味ですが、それはコップと指先の間(あいだ)のように、ごく微妙なニュアンスをさしています。
■ソンダグ ―・・・(略)・・・「間(ま)」というのは、西洋流の言い方をすれば、一種の注意力の働かせ方ですよね。オブジェとのあいだにそうした関係、つまり一定の距離を保つとしたら、逆に対象に対し注意を払っていかなければならない。西洋流の関係のとり方ではダメですよ。(略)ひとつひとつのものに真剣に注意を払っていきたいからなのです。(略)こうなるとやはり、中立的な空間性にまさるものはないでしょうね。
■セイゴオ ― そう、それです、それなんです。「何にも属さない空間」というのが東洋にはありうる。(略)

とまあ、こんなぐあい。
固定されたものではない、意味を発しない、中立的なビジョン。

たとえば、僕らは「家」に住んでいます。
住むということは、そこに「ある」ということ。ただ「ある」のです。
それ以上の意味はないと考えます。
家には何らかの生産性はありません。そこが労働の場であったり、あろうことかゲイジュツの表現の場であってもいけない。
僕らはただただ、そこに「あり」たいのです。・・・地上にひとつの場所を。

これが「家」でくつろぐということであり、「住む」ということの本質だと考えます。
デザインとはこういった思想のことです。
住宅の設計について置き換えて考えてみると、個々の部屋の役割よりも空間の連続性の方が大切だと思います。
「間(ま)」を感じること。部屋の大きさや用途よりも、そこからどんな光景が見えるか、どんな気配を感じることができるか。どんな日差しを感じるか。
たとえば、話は大袈裟ですがベルサイユ宮殿は常に何かで埋め尽くされています。装飾品、絵画、オブジェ、天井にまで絵画。
これがソンダグのいう西洋流の「所有」であり「展示」なのでしょう。空間に意味をつけなければ気がすまない気質。

京都には数多くの茶室があります。小堀遠州の茶室があり、利休好みの「不審庵」などの茶室が現存しています。
ほとんど光と影しかないような世界。大胆で静謐でおもしろい空間です。
現在のミニマリズム・デザインに通じる空間構成はすでに室町時代にここ(日本)にあったというわけです。

人と人との間、開口部との間、移り変わる空間。
この言葉にすることができないモヤモヤとしたものがデザインの本質であり、スーザン・ソンダグの「反解釈」そのものであろうと思います。
そこが勝負の住宅デザインです。

イザイ デザイン オフィスのホームページはこちらから。
posted by sato | 23:29 | エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) |
【連載第3回】 「このことを / 内藤 礼」
「このことを / 内藤 礼」
内藤礼01
前回、村上春樹の小説と小野リサのヴォーカルをテクストにして「微細なこころのうごき」を書いたのですが、今回はその続き。
おそらく繊細さでは誰にもひけをとらない(?)アーティスト内藤礼さんの作品を見てみたいと思います。

瀬戸内海の離島、直島にある「ベネッセアートサイト直島」から注文した作品集。
アーティスト内藤礼さんの直島での作品集「このことを」である。

内藤礼さんの作品は、絵画(いわゆるタブロー)ではなく、立体というよりも空間作品。
繊細でか弱くて、泣きそうになるくらい儚い。ものによっては、物凄く小さい。
西洋絵画の彫刻的な筋肉やボリュームを習わされてきた自分にとっては、対極にある作品だった。

ベネッセ03

「このことを」はこの直島でアートプロジェクトとして、築200年の古民家を芸術作品に仕立て上げた作品だ。
民家の中に入ると、外からの光は制限され、自然光がまるでなにかの装置のように差し込む。
ガラスや糸やプラスティックでできた小さなオブジェに、魔法のように繊細な光があたり、浮かび上がる。
土の上に置かれたナイロンの輪は、そのまま宇宙の異空間に誘う。
我々鑑賞者は、その微小なオブジェを見れば見るほど、その「大きさに」圧倒され吸い込まれそうになる。いつしか我々の「見る」という行為は反転され、「小ささ」「儚さ」といったものが実は相対的なものでしかないことに気づく。あとにはただ、絶対的な美があるだけだ。

内藤礼01

内藤さんの過去の作品「地上にひとつの場所を」はすばらしいタイトルだ。
内藤さんは作品を作り上げたのではない、と思う。
「小ささ」や「儚さ」は、もともと空間に備わっていた属性のようなもので、内藤さんはそれを愚鈍な我々が見えるように、そっと取り出しただけではないだろうか。
もともと、空間には我々の眼に見えない何かがあった。
それはセンダックの「かいじゅうたち」であったり水木しげるの「妖怪」だったりした。
宮澤賢治の童話に現れる、狼や森や座敷童子。

私たちの社会は「大きさ」や「強さを」価値基準として成り立っている。
そのベクトルが単一方向しか向かなくなったとき、小さきもの、か弱きものは隅に追いやられ、排除されてしまう。

だから「地上にひとつの場所を」なのだ。
マイノリティを擁護せよと言っているのではない。
世界はもともと、対称性でできているのだ。どちらかが一方的に勝ってはいけないし、あろうことか、略奪してもいけない。

我々の存在する意味を「このことを」で考えてみた。
内藤さんのおかげで、この世に出現することができた「か弱き者たち」をそっと見守りましょう。
ベネッセ02

デザインについての「繊細さ」の考察は、まだまだ続きそうです。

イザイ デザイン オフィスのホームページはこちらから。
posted by sato | 09:30 | エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) |
【連載第2回】キャラ弁に拍手!
「キャラ弁に拍手!」

ピカチューのキャラ弁
うちの奥さんと早起きして、こんなもの(!)を作ってしまいました。
この日はうちの子(小学校3年生)のウォークラリー(遠足みたいなものか)。
行事のたびに、毎回早起きしてお弁当をつくるのも大変そうだし、なにかできそうなアイデアはないかと考えたのがこの「キャラ弁」
いやしくも住宅の設計をやっている身でありながら、最近ほとんど台所に立っていなかったのを反省して、ピカチューおよびポッチャマ作成の任を引き受けたのでありました。

1.海苔で「ポッチャマ」と「ピカチュー」の黒の部分を切り抜く。(ハサミ)
2.薄焼き卵を何層かつくり、「ピカチュー」の黄色の部分を切り抜く。(果物用包丁)
3.ウインナーを輪切りにして「ピカチュー」のほっぺたと「ポッチャマ」のくちばし(?)部分をつくる。
4.「ポッチャマ」の顔のおにぎりを作る。
5.それぞれレイアウトにそって顔に盛りつける。
ピカチュー ポッチャマのキャラ弁
海苔って卵焼きの油分には、まったくくっ付かないのですね。
そーっと爪楊枝でのせて、ふたをして完成。
「弁当箱をゆらすなよ」と子供に注意して送り出しました。

しかし小学校3年生で、こんな弁当をもってくる子はおらんだろうな。

ホームページはこちら
posted by sato | 14:12 | エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) |
【連載第1回】 「村上さんと小野さんと」
(以前べつのブログに掲載した記事に加筆しています)

村上春樹の「1Q84」を読み終えたついでに80年代の名作「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読了。
20代のころに読んだハードカバーがどっかへいったので、新しく出た新装版を手に入れて『どっぷりと』ハルキワールドに浸る。
村上さんの小説の主人公はとにかく料理をよく作る。
スパゲッティーを茹でたり、ありあわせの材料で炒めたり焼いたりすり潰したり。
どんなに危機的な状況でも、主人公である「私」は料理を作り、食べて飲んで、後片付けまでする。
まるでキッチンに、ある種の思想性や歴史性が宿っているかのように。

つくづく微小な表現のうまい作家だなあと感心する。
僕のまわりでは、村上春樹が好きな人とそうでない人がいる。
あるいは、「ノルウェーの森」で好きになった人と、嫌いになった人。


村上春樹は細部を表現するために全体を構築しているのだと思う。
順序が逆なのだろう。
全体があってそのための細部という、トップダウンなハリウッドの映画みたいなものを期待していると何のことやらわからなくなってしまう。
いわゆる「主人公がどうした」とか「どんな事件に遭遇した」とか。
成長したとか、大きくなったとか。
きっとそんなことは村上春樹の小説においては、あまり重要ではない。
そのとき「緑(ノルウェーの森)」が聴いていた音楽、とりわけ旋律の些細な「ゆれ」とかまわりの空気とか。

僕は以前「メタファー」なんだと思っていた。

実際はもっと感覚的なもの。「メタ・sense」
感情ではなく感覚。

だから読んでいて気持ちがいいし、アイロンだってかけたくなる。
時系列に沿ったトップダウンの大河小説と反対側にあるもの。
まさに「壁」と「卵」の比喩なら、「卵」の側にあるもの。

内田樹氏は「倍音」といった。

なぜ村上春樹の小説が世界中で読まれるのか。
そこには言語を超えた人間共通の「気持ち良さ」みたいなものがあるはずだから。
音楽でいうなら音符で表現できないもの。
具体性をもった「音符」や「言葉」では表現できないもの。
そこに突如現れてくる「倍音」
テーブルの上に並べて指し示すことができないもの。


ここで小野リサを引き合いに出してみる。
ポルトガル語の歌詞はわからないけれど、きっと悲しい歌も楽しい歌もあるのだろう。
だけど小野リサはどんな内容の歌も「やさしく」できるかぎり「やさしく」歌っている。
悲しい歌を悲しく歌うなんて、きっと考えてもいない。
全神経を集中させて、「やさしく」歌うことだけに徹底している。
職人技というくらいに。
だから「僕らは」気持ちがいい。

気持ちよさを感じる時は、ポルトガル語の歌詞や内容やアントニオ・カルロス・ジョビンの美しいメロディーはもちろんだけど、口が動いた時の音とか喉から息が出るタイミングとか。
ジョビンの楽曲はそれこそ多くの人がカバーしているので、ことさらその「差異」が目立つことになる。

それに、ちょっと笑う時があるのです。
べつに面白いことがあったのではなく、だれかがギャグを飛ばしたのではなく、歌の最中に笑みがこぼれる瞬間。
ベリクソンの「笑い」、そうそうプリミティブな笑い。
突如あらわれてくる瞬間。

小野リサや村上春樹に共通するのは、この細部の気持ちよさだと思う。
気持ちよさは「ポジティブ」であり「肯定」のこと。

日常生活を肯定し、こころの動きを肯定する。


読後にスパゲッティを茹でてみたくなったり、アイロンをかけるのが楽しくなったりするのは、このためだったのですね。
僕がデザインという作業をする上で心掛けていることが、このことです。
できるだけ邪魔なものは取り除いて、微細な「ゆれ」がわかるように。
雑多な生活臭がでないように(だって村上さんの小説も小野さんのボーカルも、非日常のなかで展開するポジティブな生ですから)。

いちど「生活という『うすのろ』(佐野元春の歌詞)」から離れてみる。
光や風がどのように入ってくるか想像してみる。
できれば、炒めたオリーブオイルのにおいやバジルの匂いを想像してみる。
どんな音楽が流れるか想像してみる。

日常を肯定するために、非日常に立って想像すること。

巷にあふれている「(なんちゃって)デザイナーズ・ハウス」とここが違んだと思います。


ホームページはこちら
posted by sato | 11:40 | エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) |
【連載第0回】 「デザイナーなんかがエラそうに」
なんてエラそうなタイトルをつけていますが、ホントは物凄い小心者で自分がなくっていいなりで、自己嫌悪の塊です。
その小心者が綴るエラそうなブログ(こういう自己矛盾こそが「人間味」というヤツ)。

極々控えめに、住宅デザイナーの現場から日々のエッセイを語っていきます。
どうぞよろしくお願いします。


ホームページはこちら
posted by sato | 11:34 | エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) |
Search this site